〜長女幼稚園編〜

我が家は2人とも結局音大へ。
今でも理由がわかりません。

ただ、確かに小さい時から音楽は
確かに「やらせて」いました^^;

あまりに練習しなさすぎて
練習させるのが私も苦痛で。

だけどその道に進んだ娘たちから
今はいろんな「ギフト」があります。

特にクラシックが大嫌い(ごめんなさい!)
エレクトーン大好きピアノ嫌い!

バンド畑の私が今こうやってピアノ指導行い

クラシック音楽の大切さに気付き
今も音楽教室を続けていられるのも
子供達からの「ギフト」のおかげです。

なぜ娘たちが音楽の道に進んだのか
今でも全くわかりません笑

育つ過程で何があったのやら・・

我が家の子育てにおける「音楽」について
お話ししたいと思います。

(小2と年長かな?)

長女の人見知りを何とかしたいというおもいで
ママ友に協力してもらって始めたリトミックサークル。

長女無事就園した頃「続けてほしい!」との声と
同級生が地元でもリトミックサークルしてほしいと
(当時1歳までのリトミックがなかったので)

住んでいる東淀川区と地元茨木市で
サークルとして始まりました。

茨木はなぜかあれよあれよとクラスが増え
気づけば月2回週3回、1回に2クラス、
月2回なので奇数週偶数週、計12クラス!!
1クラス6〜9組ほどだったので、

あっという間に100組という
ありがたくも忙しい日々が始まりました。

長女は幼稚園だったので
お迎えのバスが来るまでに戻るのが
一番至難の業!!(笑)

当時2歳になる次女を
リトミックに連れて行ってたので、
レッスンもやはり私にまとわりつくし、
レッスン後に2人の時間作りつつ
車の運転できない私が東淀川区まで帰るのが
大変で、

晴れている時は40分かけて
自転車で茨木と東淀川区を往復していました。

エレクトーンのレッスンも
大人のみは行ってたし、
カルチャーセンターの講師も
実家に預けながら続けていたので

音楽=ママがいなくなるさみしいもの

と感じて欲しくなくて
母親として娘と音楽に接しておきたいと思い

長女はリトミックとは別に
ヤマハに通っていました。

もちろんそこでも人見知り爆発で
抱っこちゃん状態から始まり、

ソルフェージュでも先生の前に出ず、
一緒に弾きましようと言われても
私の手の上から自分の手を置き、

発表会はもう地獄で、
それでなくても
スカートは嫌い!肌触りのいい
着古した物を好む長女にとって、

「みんなと同じ衣装」
「リボンをつける。スカートを履く」

そして
「舞台に出る!!」

親子で苦行以外の何者でも
ありませんでした。

発表会の「曲」は大好きで
自宅でよく聴くし歌い踊るし、
姉妹で色々ストーリーを作って
遊んでいました。

練習は・・

まだ、私にも余裕があった頃だったので
騙し騙し、どうにか「切れずに」笑
させていたと思います。

ただ、本番が本当に。。。。
幼稚園の発表会は大丈夫だったけど
ヤマハの発表会本番は本当に嫌がりました。
ただカスタネット叩くだけなのに。

先生も色々配慮してくださったのですが
四苦八苦しながらどうにか舞台袖に
連れて行った記憶しかありません。

園でも、入園当初は脱走も激しくこっそり覗きに行くと
よく先生に連れ戻されていました・・。

これは親として楽しめば
なんとか幼稚園を好きになってくれるかと思い
クラス委員という主に親睦会など企画する委員になり
絵本のボランティアなども積極的に。

少しずつ慣れてきたけど、

一番困ったのが
「運動会当日」

日曜日はお気に入りのテレビを見る日なのに
体操服を着て園に行く

これが本人には理解できなくて
大暴れ・・。

園に連絡すると

「なんでもいいからとにかく来て!」

との先生の返事。

パジャマの上から体操服着せて
どうにか連れていくと先生から

「後は大丈夫です!」

と力強い声と共に
消えていきました笑

着替え直してくださり、

全員の体操から。

それは立ち尽くして何もしなかったけど
お遊戯や親子競技などは

ちゃんとできていて・・泣きました笑

年中では活発になってきたものの
着るもののこだわりが。。

「同じスパッツをはく」

これが・・泣

肌触り優先、スカートは嫌い!

これが先のヤマハの発表会衣装のことにも
繋がるのですが・・

こだわりが強烈で色々心配しました。

長女が年長になり
ヤマハは先生が変わりました。

元々教わりたいと思っていた先生の
新クラス開講ということで、即移動しました。
年長かな?

ここで大きく変わりました。

もちろん前に出れないし弾く時も
「ママの手かして!!!」と叫びますが、

今までなら先生は
「自分で弾いてみようよ!」
「出てきてごらん?一緒に歌おう!」

と誘って下さっていたのですが、

この先生は
「ママの手の上でいいから!」
「そこで歌ってくれたらいいから!」
と言ってくれたのです。

「それでいいんだ!」と、娘も
落ち着き出しました。

東淀川区から茨木まで電車に乗って
通っていました。

園が終わりみんなで少し遊んでいる所を
抜けて電車に乗らないといけないので
よく「なんでヤハマ(←当時こうしか言えなかった笑)に
行かないといけないの!!」と
絶叫していましたが、

いざレッスンになると
落ち着いて楽しそうに受けれるように
なりました。

発表会も、グループレッスンなので
やはりみんな同じ衣装です。

その先生のクラスでは結構凝っていて
親が手作りで作ることが多く、
私が作っている様子を娘が見ていたのも
功を奏したのかもしれません。

その年のヤマハの発表会では
泣きもせず着替え、無事みんなで曲を弾き切りました。

私が泣きました笑。

何が娘をそうさせたのかと
今でも思うのですが、

「先生の娘に対する対応」

先生は良くも悪くも

手加減せず「1個人」として、娘を受け入れて
手加減せずに「音楽の素晴らしさ」を
伝え続けて下さっていたからだと思います。

どの生徒に対しても
「子供だから」の手加減が全くなく
対等に向き合って下さる先生でした。

その頃
シュタイナー教育にも興味があり
本を読み漁っていました。

そこにも
「子供に何かを諭すときは年齢より3歳位上だと思って話しなさい」
というようなことを書いていた事が印象的で

なかなか我が子には実践できずとも
生徒には実践してみようと思って
行っていた私にとっては、
この先生の向き合い方がしっくりきました。

年齢もあったのでしょうが、
その経験も含めて少しずつ
人見知り度合いが落ち着いていたように
思います。

今でも人見知りといえば人見知りです(笑)